何度観ても木村愛のことが好きになれない。

映画『ひらいて』を何度観ても木村愛のことが好きになれない。

私は原作小説を読んでいる時からこの主人公は嫌いだとおもった。公開当時に映画館で観た時も、U-NEXTで観ている今も、彼女がどうしても好きではない。

嫌い。

たぶん嫌いなのだ。

 

すべて自分の思い通りに世界が動くと思っている傲慢さと自信。自分中心に世界が回る思春期特有の全能観。

余裕があるように見せかけることだけは得意。

 

それがだんだん剥がれていく。彼女の凶暴性が

顔を出してくる。

たぶん、彼女は今まで自分が欲しいものは必ず手に入れてきて、与えられてきて、手に入れられるように努力もしてきたんだろう。

だけど、努力のベクトルを間違えると可愛い女の子ではなく、凶暴な人間になるだけ。

 

それは誰もが可能性を秘めていて、彼女だけに限った話ではない。きっと。

 

我が強い思春期特有のあの視線の動かし方、気に食わない事には見ないふり、もしくは攻撃的になる。

木村愛を嫌いたる由縁は彼女の暴力性、攻撃性にある。

公開当時、映画館で観た時は衝撃を受けた。その時点で原作小説を読了していたのだけど、映像化されて立体的に描かれる事で、こんなにも苦しくて青い作品であるのかと再認識することができた。

 

原作とは違う描かれ方をしているところや、ラストも違うので、あくまでも映画『ひらいて』の感想、木村愛への皮肉の文章として書いていこうと思う。

 

まず、彼女の執念深い視線。音読をする西村たとえの顔を見つめ、教科書の「たとえ」の文字をなぞる。

少しでも彼と接点を持とうとノートは最後に返却、「その問題わかんないから教えてよ」と近づく。それは多分嘘で、彼と近づくための口実でしかないんだろう。

彼に勉強を教えてもらうクラスメイトに嫉妬して、私も私もと。成績優秀なくせに。

 

美雪に近づくための「親戚にも同じ病気の人がいる」という嘘。

友達とじゃれ合う時のちょっとした嘘と変わらない、彼女にとって自分のための嘘は口実であって嘘には当たらないのかもしれない。

ミカが「私イビキかいてなかった?」と聞いたときの「かいてた〜……嘘(笑)」

これと一緒なんだろうなって。

 

たとえが1人手紙を読んでいるところを目撃した愛は階段の上からわざとゴミ箱を投げてゴミをぶちまける。常人ならそんなことはしない。多分しない。

それもほとんど自分で拾わず、想い人に片付けさせ、壁に寄りかかり自分の言いたいことだけ喋って満足する。少しでも彼を惹きつけるために。少しでも彼の視界に自分が入るように。全て打算で生きている。

 

ミカが多田のことを好きな気持ちを知っておきながら多田と自転車二人乗りなんてしちゃって。他人を慮れる人間はこんなことはしない。

 

学校に忍び込んで手紙を盗み見るなんてこと、常人はしない。

 

始まりの、愛が美雪を助けるシーン、あの時点で彼女は良い子なんだと思った。残ったジュースを地面に流すまでは。美雪が落とした飴玉を拾い食べるまでは。

 

たとえに近づく為に美雪に近づく、たとえの気を引こうと嫌なことをする。

目的のためには手段を選ばない。

そんな彼女の傲慢さがだんだんと現れてきて、思春期の揺らぎとか、そんな簡単な言葉じゃ表せないくらい、彼女はハマって堕ちていく。

綺麗に整えていた爪も、綺麗にアイロンを通していた髪も。部屋の中も身なりも無頓着になり、教室を急に抜け出すなど、自暴自棄になっていく様子がなんともツラい。だけど私は愛に同情することができなかった。

 

そんななかでも変わらず愛の母は「爪の形だけはそっくりね、顔が無くても愛ちゃんだってわかる」なんて言うのだ。変わらず、なんにも変わらずにいる。ミカや多田だって愛を心配してくれる。美雪とたとえも変わらない。

 

変わっていくのは彼女だけなのだ。揺らいでいるのは木村愛だけなのだ。少なくとも私にはそう見えた。

父親の誕生日のメッセージカードには「おめでとう」と書けるが、なんでもない日のメッセージカードにはなんにも書けない。

丁寧に形作られた、折り方の決まっている折り鶴のように、優等生の形を作っていた彼女の人格は、定型文だけは書くことができる。

自分のことが一番で、気に入らないと攻撃的になる彼女の根底にある何かは、他人になんでもないメッセージを書くことすら出来なくさせている。そんな気がした。

 

カラオケのシーン、美雪からたとえのことを聞き出すためにモニターの電源をぶち抜いて、どれだけの執着心がそんなに彼女を突き動かすのか。

 

それでもなお美雪は、愛のことを受け入れ変わらず接する。

自分のためなら嘘を平気で吐く愛。

しかし、真っ直ぐで純真なたとえと美雪には見破られてしまう。目が暗い。貧しい笑顔だ。と。

 

愛が周囲を翻弄しているかのようにみえて、周囲に翻弄されているのが愛なのだ。そして彼女は翻弄されている自分に気づかず制御することも出来ないのではないか。いままでなんでも思い通りにしてきたから。

 

最後の台詞「また一緒に寝ようね」。

私は、原作小説がハッピーエンドだとしたら、映画版はバッドエンドだと思っている。

 

愛は、まだたとえと美雪から心が離れていない。彼女の執着は終わっていないんじゃないか。この台詞は呪い(のろい)であり、呪い(まじない)なのではないか。

 

彼女はきっと反省なんてしていない。