秘密を抱えるサラブレッドたちについて
静かに不安、狂気を感じる友情のお話『サラブレッド』について。(原題は『Thoroughbreds』)
ポスターには、《三つの秘密、二つの裏切、一つの事件》とある。
主人公は2人の少女、アマンダとリリー。
映画は冒頭、一頭の馬とアマンダとナイフのシーンから始まる。
【チャプター1】
とある豪邸に訪れるアマンダ。そこは疎遠になっていた幼馴染のリリーの自宅。
アマンダの母親はリリーにアマンダの家庭教師を務めるように頼んでいた。
《一つ目の秘密》アマンダには感情が無いということ。
アマンダはあらゆる感情が無いかわりに人の真似をするのが上手いらしい。
観察眼が鋭いアマンダは、リリーが継父との関係に悩んでいることをすぐに見抜いてしまう。抑圧的な態度の継父に、内心怒りを秘めているリリー。
感情を抑え込んでいたリリーは、アマンダに挑発され、アマンダに対して悪口をぶつける。言いたいことをぶつけてリリーはスッキリとする。
◎コツを掴めば泣ける
古い映画を観ている2人。演技の話になり、コツを掴めば泣けるようになったとアマンダ。
それを教わるリリー。そこへ継父がやってきてアマンダに早く帰るように言うが、2人は口を合わせて彼を追い出す。
彼の愚痴を言い合う彼女たちの頭上、上の部屋からはエルゴメーターの音がしていた。
彼女たちは、彼のワインを飲みながら「殺してやりたい」と考えたことがあるかと言い合いになる。「死ねばいいのに」と愚痴をこぼしていたリリーも「殺す」ということは考えたことが無いらしい。アマンダは至って冷静に言い合いをするが、リリーに帰るように言われてしまう。
【チャプター2】
《二つ目の秘密》リリーについて。
アマンダには「単位を取り終わっているから学校に行く必要がない」と説明していたリリー。優等生にみえる彼女は実は学校を退学になっていた。インターンの話も全て嘘。
親からは寄宿学校への入学を薦められているが、リリーにはとても不服な話だった。
そんななか学生パーティーに参加したリリーはドラッグの売人ティムに出会う。彼は子供相手にしかドラッグを売らない小心者であった。
◎例の写真:アマンダが殺した馬の話
リリーが参加したパーティーでもその話題でもちきりだった。
真実は、脚を怪我して歩けなくなった愛馬をいかに苦しませず、母親も悲しませず、死なせるにはどうしたらいいかと考えた結果のアマンダの行いであった。これが冒頭のシーンに繋がる。
そしてこれをきっかけにアマンダは動物虐待で訴えられて、周囲から煙たがられていた。
◎殺害計画
リリーは、継父の殺害計画をアマンダに話す。
義娘のリリーと動物虐待で訴えられているアマンダ。計画を実行するには「離れた場所、完璧なアリバイが必要」とアマンダは言う。
【チャプター3】
介護施設のキッチンで働くティムに会いに行く2人。彼を使って継父を殺す作戦を企てる。ドラッグの取引を盗聴して、半ば脅す形でティムに殺人を依頼する。
「躊躇しちゃダメ。なによりも最悪なのは優柔不断な人」とアマンダは言った。
《一つ目の裏切》
ティムは実行しなかった。
焦るリリーは自分たちでやろうとアマンダに提案する。
【チャプター4】
実行。生きる意味について。
幸せも感じないアマンダに対して「人生の意味はあるのか」と問うリリー。
「考えたこともなかった」とアマンダ。
《二つ目の裏切》
リリーはアマンダのドリンクに睡眠薬を入れたと告白。
眠らせて実行した後、アマンダにナイフを握らせて罪を被せようとした。
正直に告白して飲むのを止めるようアマンダに忠告するも、アマンダは一気にドリンクを飲み干してしまう。
「何で飲んだの?」
「生きる価値ないから」
「違う、あなたは友達」
「わたしは真似するのが上手いだけ」
眠ったアマンダを置いて部屋を出るリリー。ナイフを取る音。しばらくして頭上のエルゴメーターの音が止まる。
血塗れで部屋に戻ってきたリリーはアマンダに寄り添い眠った。演技では無い涙を流して。
これは《三つ目の秘密》
リリーは大学へ再入学。そのためにランチミーティングに訪れたレストランでティムに再会する。ティムは出世したようだ。
一方アマンダは精神病棟で生活していた。「失くした数時間の記憶を取り戻そうとしている。街にはサラブレッドばかり。」
そう書いた手紙をリリーに送った。
リリーが「手紙を読まずに捨てた」と言ってこの映画は終わる。
アマンダが本当に記憶を無くしているのか、リリーが本当に手紙を読まずに捨てたのか、それは彼女たちにしか分からないことだ。
お互いの家に行き来してただ映画をみたり、プールで息止め対決をしたり、喧嘩しそうでしない壊れていそうで壊れていない、腹を割りきりすぎた不思議な仲の2人。
睡眠薬入りのドリンクを飲み干したアマンダ。それは感情が無い彼女なりにリリーを助けるための優しさなのではないだろうか。
愛馬の話然り、「助けたい」という優しさはもっているのだろう。
序盤、アマンダの個性的なキャラクターばかりが目につくが、次第にリリーの恐さも浮き彫りになっていく。
アマンダがサイコパスであれば、リリーもある種のサイコパスである。リリーには共感力がない。自己中心的で、実は物凄く感情的である。
一方アマンダは自分に感情がないのを理解して人を観察し分析し、模倣する。
お互いに有って無いものを共有しあい《一つの事件》を起こすのだ。
だから原題はThoroughbreds。複数形なのだと思う。
何度観ても木村愛のことが好きになれない。
映画『ひらいて』を何度観ても木村愛のことが好きになれない。
私は原作小説を読んでいる時からこの主人公は嫌いだとおもった。公開当時に映画館で観た時も、U-NEXTで観ている今も、彼女がどうしても好きではない。
嫌い。
たぶん嫌いなのだ。
すべて自分の思い通りに世界が動くと思っている傲慢さと自信。自分中心に世界が回る思春期特有の全能観。
余裕があるように見せかけることだけは得意。
それがだんだん剥がれていく。彼女の凶暴性が
顔を出してくる。
たぶん、彼女は今まで自分が欲しいものは必ず手に入れてきて、与えられてきて、手に入れられるように努力もしてきたんだろう。
だけど、努力のベクトルを間違えると可愛い女の子ではなく、凶暴な人間になるだけ。
それは誰もが可能性を秘めていて、彼女だけに限った話ではない。きっと。
我が強い思春期特有のあの視線の動かし方、気に食わない事には見ないふり、もしくは攻撃的になる。
木村愛を嫌いたる由縁は彼女の暴力性、攻撃性にある。
公開当時、映画館で観た時は衝撃を受けた。その時点で原作小説を読了していたのだけど、映像化されて立体的に描かれる事で、こんなにも苦しくて青い作品であるのかと再認識することができた。
原作とは違う描かれ方をしているところや、ラストも違うので、あくまでも映画『ひらいて』の感想、木村愛への皮肉の文章として書いていこうと思う。
まず、彼女の執念深い視線。音読をする西村たとえの顔を見つめ、教科書の「たとえ」の文字をなぞる。
少しでも彼と接点を持とうとノートは最後に返却、「その問題わかんないから教えてよ」と近づく。それは多分嘘で、彼と近づくための口実でしかないんだろう。
彼に勉強を教えてもらうクラスメイトに嫉妬して、私も私もと。成績優秀なくせに。
美雪に近づくための「親戚にも同じ病気の人がいる」という嘘。
友達とじゃれ合う時のちょっとした嘘と変わらない、彼女にとって自分のための嘘は口実であって嘘には当たらないのかもしれない。
ミカが「私イビキかいてなかった?」と聞いたときの「かいてた〜……嘘(笑)」
これと一緒なんだろうなって。
たとえが1人手紙を読んでいるところを目撃した愛は階段の上からわざとゴミ箱を投げてゴミをぶちまける。常人ならそんなことはしない。多分しない。
それもほとんど自分で拾わず、想い人に片付けさせ、壁に寄りかかり自分の言いたいことだけ喋って満足する。少しでも彼を惹きつけるために。少しでも彼の視界に自分が入るように。全て打算で生きている。
ミカが多田のことを好きな気持ちを知っておきながら多田と自転車二人乗りなんてしちゃって。他人を慮れる人間はこんなことはしない。
学校に忍び込んで手紙を盗み見るなんてこと、常人はしない。
始まりの、愛が美雪を助けるシーン、あの時点で彼女は良い子なんだと思った。残ったジュースを地面に流すまでは。美雪が落とした飴玉を拾い食べるまでは。
たとえに近づく為に美雪に近づく、たとえの気を引こうと嫌なことをする。
目的のためには手段を選ばない。
そんな彼女の傲慢さがだんだんと現れてきて、思春期の揺らぎとか、そんな簡単な言葉じゃ表せないくらい、彼女はハマって堕ちていく。
綺麗に整えていた爪も、綺麗にアイロンを通していた髪も。部屋の中も身なりも無頓着になり、教室を急に抜け出すなど、自暴自棄になっていく様子がなんともツラい。だけど私は愛に同情することができなかった。
そんななかでも変わらず愛の母は「爪の形だけはそっくりね、顔が無くても愛ちゃんだってわかる」なんて言うのだ。変わらず、なんにも変わらずにいる。ミカや多田だって愛を心配してくれる。美雪とたとえも変わらない。
変わっていくのは彼女だけなのだ。揺らいでいるのは木村愛だけなのだ。少なくとも私にはそう見えた。
父親の誕生日のメッセージカードには「おめでとう」と書けるが、なんでもない日のメッセージカードにはなんにも書けない。
丁寧に形作られた、折り方の決まっている折り鶴のように、優等生の形を作っていた彼女の人格は、定型文だけは書くことができる。
自分のことが一番で、気に入らないと攻撃的になる彼女の根底にある何かは、他人になんでもないメッセージを書くことすら出来なくさせている。そんな気がした。
カラオケのシーン、美雪からたとえのことを聞き出すためにモニターの電源をぶち抜いて、どれだけの執着心がそんなに彼女を突き動かすのか。
それでもなお美雪は、愛のことを受け入れ変わらず接する。
自分のためなら嘘を平気で吐く愛。
しかし、真っ直ぐで純真なたとえと美雪には見破られてしまう。目が暗い。貧しい笑顔だ。と。
愛が周囲を翻弄しているかのようにみえて、周囲に翻弄されているのが愛なのだ。そして彼女は翻弄されている自分に気づかず制御することも出来ないのではないか。いままでなんでも思い通りにしてきたから。
最後の台詞「また一緒に寝ようね」。
私は、原作小説がハッピーエンドだとしたら、映画版はバッドエンドだと思っている。
愛は、まだたとえと美雪から心が離れていない。彼女の執着は終わっていないんじゃないか。この台詞は呪い(のろい)であり、呪い(まじない)なのではないか。
彼女はきっと反省なんてしていない。
ベビわるの感想文
とんでもない作品に出会ってしまい、U-NEXTとTwitterとはてブロのアカウントを作ってしまいました。衝動的に生きています。どうもはじめまして。
『ベイビーわるきゅーれ』とんでもない好き作品に出会ってしまったんですが、、、どうしたら良いでしょう。
たまたま予告編の動画をみて、なんだこの面白そうな映画は????しかし第二作目か……観るの迷うな。いや、一作目がU-NEXTで配信されているではないか???これは契約しなければ。
面白かった!!!観に行きたい!
(ちょっと映画館遠いけど……!)
と、二作目を観に行ってきました。客層が実に不思議で老若男女〜という感じでした。面白かった。帰ってきてからまた一作目を観返して、今です。
この2日間で私の人生変わりそうなので、取り急ぎ!思ったことを忘れないように、乱文・駄文に起こしたくて、続けて観た感想をまとめて書いています。
一作目と二作目それぞれの感想文はまた別で書けたらと思います。
2人はほぼプリキュアです。強い女の子が大好きな私からすればもうほぼプリキュアと言っても過言では……過言?過言かな?
プリキュアみたいに正義と悪という対立はしません、この作品は。
殺したいから殺す。依頼されたから殺す。ムカツイちゃったから絞めちゃった!てへぺろ♪みたいな。
だってプロの殺し屋だもん。それが生業なんだもん。無理なんだもん!普通の仕事は!みたいな。
二作目ではよりお金の話がよりヘビーになってきます。世知辛い。見返してみたら一作品目からお金の話はちょくちょくしていました。先輩メイドの姫子さんも大変そうでしたね、「私たちお金に困ったことないんで!」のドストレート失礼っぷりを発揮してましけど。
急に「元女子高生の殺し屋(プロ)」“らしい”女の子2人が出てきます。
今までは寮に住んでいた“らしい”。けど、2人暮らしをすることに。
生い立ちや殺し屋になった経緯、親・家族のことは一切出てこないところも良いなと思いました。
ゆるゆるふわふわアドリブなのか台本なのか分からない会話劇、わちゃわちゃドタバタボケツッコミ劇とアクションシーンのギャップ。彼女たちの存在に釘付けになっていました。いつの間にか。彼女たちから、彼女たちの「目」から、目が離せなくなっていたのです。
彼女たちの生活能力はかなりのポンコツっぷりで、社会不適合者どうし。初めて観た時は、「発達障害」なのではとおもいました。多動的で忘れ物や落とし物が多いちさと。人とコミュニケーションが上手く取れない脱力無気力系、食べるのが下手くそなまひろ。
しかし、2人ともやる時はやる。殺るときは殺るのです。
いつもぐだぐだ喋り散らかすけど、たまに達観したことを据わった目で語り出すちさとと、いつもゆるゆるふわふわだけど周りを意外とみていて、感情の起伏が大きいちさとのブレーキ係になることもあるまひろ。
誰しも二面性を持っているものだと聞いたことがありますが、この2人もまた二面性をもっています。それは「殺し屋」という面だけでなく。
2人は1つの人格が分裂した存在なのでは?というのが私の最初の感想でした。知らんけど。
食べることは生きること。生きることは食べること。と誰かが言っていました。息をすること食べること、辞めたらそれ即ち死だと。この作品は食事シーンがよく出てきます。主人公2人だけではありません。バイト先の先輩たち、殺し屋協会の仲間たち。二作品目の神村兄弟たち。
彼女たちには日常の地続きに殺しがあるのです。
私は食事シーンがたくさん出てくる作品が好きです。なぜならキャラクターが生きていることが分かるから。作品の登場人物も、私と同じように働いて疲れてコンタクトをつけたまま寝転がったりソファでグダグダとゲームをしたり。遅刻ギリギリで仕事に行って、疲れて帰ってご飯を食べて。生きているんだなと思うのです。
まひろは殺し屋の仕事を終えたあとに、大きく息を吐き「あ〜つかれた〜」と言うのです。「反省会しよ」とか言うのです。
死ぬかと思ったとヘラヘラ笑うシーンもありました。でもそれは生きているから出来ることです。
特別生にも死にもこだわりの無さそうな目をする彼女たちも、殺し屋の仕事をすることで自然とヒエラルキーの上に立っているのだなと思いました。